起業奮闘記 もくじ
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プロローグ
晴れ男は何故起業したいのか
起業って
会社を興すって
社長になるって
金を稼ぐって
どうしたらそういう事が出来るんだろう、子供の頃、単純に町の電気屋になりたい自分がいた。
サラリーマンとして給料取りになりたくない自分がいた。
自分の力で自分の考えで自分の責任で生活の糧を得たい自分がいた。
結局それは、自分自身のわがままであったり、傲慢であったり、他人様にほめて貰えるような
動機があっての事じゃなかったと思うけど、自分は、なにかを興したかった。
町の電気屋になりたかった時代、高度経済成長の真っ最中、昭和50年前後
小学校6年の時に、アマチュア無線の免許なんかを取得して、やっぱり俺は電気屋関連と考えて
いた時代、現在の様な電器の量販店なんて東京に行かなければ無かったし、ホームセンターなど
姿がまだまだ見えてこなかった時代。
中学1年の頃茨城の地方にもコンビニエンスストアが建ち始めていた。まだ7−11の時間帯営業
の店舗だけしか無く、24時間営業なんて考えもしなかった。
小学校、中学校、高校と何の為に勉学をし、学校へ通っているかの意識が薄いまま、そろそろ高校も卒業という高校3年の夏、1度目の決心をしたっけ。
★競輪選手になる
小学校入学から高校卒業まで、体育の成績は上からも下からも真ん中の「ふつう」「3」などの
通知表評価しかいただかないくらい、スポーツとは縁遠い生活をおくってきたのだが、趣味の自転車で大金を稼ぐ事にある程度の自身を持って、理科系進学コースに在籍しながらも、競輪選手になるという目標を掲げていた。
誰かが言っていたっけ、「本気でなりたいなら、思うだけじゃなく、声に出して言い続けなさい」
そう、地域コミュニティFMに出入りしながら、自分のニックネームを「けいりん」としたのも自分
に言い聞かせ、自分の退路を断つ意味も兼ねていたような。
「絶対選手になる」といった意識が強く強く根付いていったのを覚えている。
高校卒業と同時に、推薦で入学決定していた「足利工業大学」に入学してしまったのだけれども。
4月に入学して、最初にやってくる連休、4月29日からのゴールデンウィークに茨城に帰郷してから
なんとそのまま茨城で競輪選手になるべく活動開始してしまった。
先ず、日本自転車振興会の自転車競技会って部署を尋ね、取手競輪場でアマチュアがプロを目指し練習や記録会をしている「愛好会」というのがあるという情報を得、一人取手競輪場へ出向き、愛好会への参加をしたのであった。
1000mタイムトライアル体験1度目。 1分18秒 キツかったけど、苦しい事とは思わなかった。
それから、どうしても選手になる、という自分の気持ちの向くままに、水戸地区の選手の門を叩き
一緒に練習を始めるのであった。
5月後半だったか、6月だったかプロの選手と練習を始めた時は、さすがプロだ、目の前真っ白、気絶しそう、毎日くたくた。それの連続だった。
7月、2度目の愛好会で、1分10秒を叩き、なんと当時の愛好会メンバーでの1番タイムだ。
体力的には、合格間違い無しという時計だったから、後の練習はなんとか持ちこたえた。
高校卒業して18歳の夏、競輪選手になるために、選手との練習だけが生活だった時期。
高校ではオーケストラ部員だったのだが、ここで体育会系の仲間入り、それも命張ったプロ様との
生活ってのを体験です。
そりゃぁ厳しいもんでした。今となっちゃ当たり前、最近の若い衆には是非覚えて欲しいくらい。
翌年、19歳の誕生日が来た頃には、日本競輪学校の59会生の合格も決定して、5月の入学へ向けての準備期間を過ごしていた。
プロとして自転車に乗る事になる前に、趣味のサイクリングをと思い、単身長崎から小田原までの
10日間サイクリングをした。
高校2年の時に茨城から青森までを走破してるから、ほぼ縦断した形になる。
競輪学校は、5月に入学して翌年3月に卒業 正味10ヶ月の訓練を経て、卒業すると同時にほぼ全員がプロ選手として巣立つ。
在校24位(105人中)ここで勘違いがあった、オーケストラだったのにここまでやれれば上等じゃん。
これが大間違い、油断してたら弱くなるってば。
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